2回目の参加となった昨晩のゼミも、面白かった…。
上田先生はもちろんのこと、参加しているみなさん一人ひとりのコメントやご意見は、まるで棟上げ式の時に屋根から降ってくる紅白のお餅のようで(比喩が…)、必死に拾い上げてはメモ、拾い上げてはメモ、を繰り返しておりました😁
それら全部を一つにまとめる力はないのですが、昨晩の数々の「刺激のリスト」の中から一つについて書いてみます。
※これは私にとっての「とにかく頭で考える前に手を動かす練習」の一貫です。
「もし自分が◯◯だったら?と考えてみて」という問いかけは、私の担当する講義でもよく行っています。
プレゼンテーションならオーディエンス、ビジネスモデルなら顧客、キャリアのクラスなら採用担当者など、講義によってシチュエーションは変わりますが、自分ではない「対象になりきってみる」ことは、全ての学びの始まりなのではないかと常々思っていました。
そんな折、昨晩のオンラインウエダゼミでは、上田先生のお仲間であるJohn Maedaさんが、30年前に同志社女子大で実施した「コンピューターになってみる」という実験的なワークショップの映像をシェアいただきました。
画面の中では、学生さん一人ひとりが文字通りコンピューターの部品や機能に「なりきって」いて、例えば
「マウスをクリックしたら◯◯という画面になる」
というようなコンピューターのプロセスを身体を使って表現していました。
詳細は:https://johnmaeda.medium.com/whats-a-human-powered-computer-14997285111
その実験ワークショップに参加されていた上田先生の教え子である「かよさん」が、当時の感想をシェアしてくださいました。
”そのワークショップを経験すると、コンピューターが専門の学生ではなくても、ここが原因でこうしたトラブルが起きるのだと理解できたり、こうしたらもっと性能が良くなったり使いやすくなるのにと提案ができるようになった”
”学校でコンピューターを使っている時に不具合が生じると、コンピューターに向かって”がんばれ〜”と声をかけたり、愛おしいなと思ったりするようになった”
私自身の講義でも、「なりきる」ワークを取り入れています。例えばキャリアのクラスでは、採用担当者になりきります。
ESを作る、面接の質問を作るなどの作業を通じて、「企業に就職する➡働く」ということの本質を理解してもらおうというのがその狙いです。
概要は:https://www.shibaura-it.ac.jp/headline/detail/20230724-7070-001_1.html
ただ、今回先生に共有いただいた実験的ワークの「なりきる」は、もっともっと深いところでなされていた気がします。動画の画面ではありますが、学生さんがコンピューターの部品や機能になりきっているのが、その表情からも見えてきました。
●「なりきり度合い」は「理解度」に比例する?
●彼女達は、なぜあんなに「なりきれた」のだろう?
●なりきる対象が「ヒト」ではなくて「モノ」だといいのかな?
●私の講義でもこれくらい「なりきらせる」ことができる?
今はまだ「もやもや」です。もやもやが晴れた時には追記したいと思います。
この実験ワークから、「なりきる」ことの効用が複数あることがわかりました。
対象への本質的な理解が深まる:これはワークに参加した方の言葉からも明らかですが、単なる理解というよりは「本質的な理解」が得られるのではないかという気もしています。
単にしくみがわかる、ということだけではなく、例えば「コンピューターとは何か」とか「企業に就職する➡働くとはどういうことか」というような本質的な問いに答えることができるようになるということです。
対象への愛着がわく:しくみを知ることは、その対象が「自分ごと」になることでもあるのかもしれません。「自分ごと」になると、対象への何らかの感情(愛情)が生まれるのでしょう。
こうした効用を鑑みると、講義や企業の研修でもっともっと「なりきり」ワークを導入してみよう、導入すべきだと思うようになりました。
その時は、「ヒト」になりきるだけでなく「モノ」になりきるワークもぜひ挑戦してみたいです。
●「洗剤」になってみたり
●「公園のベンチ」になってみたり…
●「機械学習」になりきってみるという提案もありました(絶対おもしろい👀❗)
考えただけでもワクワクします❗
『馬を水辺につれていけても水を飲ませることはできない』ということわざがあります。英国のことわざだそうです。
このことわざは「リソースや環境、知識は提供できても、それを活用するか否かは本人次第だ」というような意味で使われるのだと理解しています。
でも実際は「飲ませる」こと以前に、私の講義では「連れて行く」こともできていないかもしれないです。本当の意味で「連れていく」のは「飲ませる」ことと同じくらい難しいような気もします。
「これってやる意味あるんですか?」という若者を前にすると、どうしてもまず意図を明らかにしてしまいがちです。
でも、本当の意味の「理解」に導くには、
●最初に意図は明かしたくない、
●自分のもやもやと向き合い、解決しない時間を味わってほしい、
●考える前に「とりあえずやってみて」ほしい、
●頭じゃなくて、もっともっと身体を使ってほしい、
「なりきりワーク」という水飲み場に向かって、学生たちがワクワクした気持ちで走り出すような環境はどうやったら作れるのだろう…。
これからも考え続けたいと思います。
それにしても、30年前にこうした試みを既に始めていらした上田先生の先見の明に、尊敬の念が更に深まった次第です。
30年前といえば、私もほぼ同時代に学生だったこともあり、こんな授業を受けていたら、自分の人生はまた少し変わったものになったのではないかと思ったりもしました。
目に見えるもの、すぐに理解できるものだけを求めて集まっているのではないウエダゼミ、本当にステキで居心地がいい✨
次回のゼミも楽しみです❗